その後を生きる、矢川冬の場合

実父からの性虐待サバイバー。「もう、沈黙はしない‥性虐待トラウマを超えて」出版。社会福祉士。家父長制絶対ダメ。HSPシニア独り暮らし。性虐待を事由に明記し戸籍名変更。女性無料シェアハウス運営。趣味はどけち節約と終活と防災サバイバル

女性がひとり生きること

 

10歳から12歳まで実父から性虐待を受けた。50年前は実の親が実の子どもに性暴力をふるうことはとても稀なことと思われていて、そういう話題は女たちが声をひそめて言い合うおどろおどろしいものだった。そのおどろおどろしい生き物が私であり実父なのだと思った。私は生命の連鎖から外れることを決心した。結婚することも、自分の子どもを持つことも早々と諦めた。汚い血は絶たねばならないから。私は誰にも言えず、何もできず、少しずつ壊れた。それでも生きたかった。

(※注 今は「血」というものについて考えが変わりました。汚い血などありませんよ。昔子どもの頃は、私もまだ周りの古い慣習や物の考え方に影響されて縛られていたから、幼な心に汚れたと思いかなり長い間悩み苦しみました。しかも恐ろしいことに通っていたミッションスクールでは「純潔教育」なるものを教えられていた時代でした。ほんとに恐ろしい害のある教育でした。

けれども、汚れているのは加害者だけであって、私自身はきれいなものです。なぜなら、私はその時誰も加害していなかったし(今はわかりません)、被害を受けてもやり返すことすらできない優しい子どもだったからです。私は汚い血(加害者)の影響を受けないように自分を律することができました。それは一生自分に起きた加害の意味を考え続けて、天涯孤独で生きるという方法でした。

 

 

女一人で生きていくためには、まず仕事をして生活費を稼ぐ必要がある。女性が仕事を持つのは白い目で見られる時代だった。周りの優秀な女性でも、せいぜい教師か看護師を目指すのが精いっぱい。生活苦から水商売をせざるえない女がほとんどだった。仕事についた女性の夫は「甲斐性なし」といわれ肩身の狭い思いをした時代だった。50年前のことです。

今は? ・・・変わっていない?・・・少しは変わった?

 

50年前小学生だった私は、自分が組織のなかでうまく働けないと気がついていた。私は勉強も運動もなに一つうまくできず、学校で口もほとんど聞けないような 子どもだった。いくらか自閉症の傾向があったのかもしれない。

 

けれど、独りで生きていかなければならない。家の外に行かなくても一人でできる仕事はないか考えた。その時英語教室でカナダ人の先生のなんとらくちんな仕事ぶりを見た。座ったきりで教本を口移しするだけ。きっと母国では普通に使っている言葉なのに、お金をもらえるなんて。日本人が英語を教えるには、大学に行かなければならない。高校を卒業するまで加害者の家族でいることを我慢して、できるだけ有名な遠くの大学へ入り逃げることが私の目標になった。

 

決して上昇志向でより良い大学と思ったのではありません。私は何も好きなものもなく、頭はぼんやり、体は重く、心は働かない。生きる気力もない。そんな能力のない人間が社会の人々の信頼を勝ち得るには、有名な大学を卒業するのが近道だと思いました。能力のない人間は肩書があれば生きられるのです。

 

なぜなら、私は受けた性虐待を世の中に訴えなければなりませんでした。

私の言葉を信じてもらう必要がありました。

 

 

 

その目標をつかんだから、実父の性虐待のさなかでも気が狂わないでいられたと思う。そしてその目標をつかんでから、どんどん頭がクリアになっていった。小学生の算数はさっぱりだったのに、中学に入ると急に数学で100点を取れるようになった。

 

小学6年で2年におよぶ実父からの虐待が止まったのは、私が勝手につけた子ども部屋の鍵を壊しに来た実父に、私が「あんたには都合がいいからね」とそれまでとがらりと変わった口調で吐き捨てたからです。その辺の経緯は別だてで、いずれ書きたいと思います。

 

とにかく、性虐待が終わったとたんに、私は頭が良くなってしまいました。生徒会をやったり運動部で成果をあげたり、全く別人のように活発になりました。本当はどんくさいはずなのに、勉強ができて明るくやさしい私はいじめも許しませんでした。クラスメートも一目おく存在になったのです。

 

ところがそんな高揚した状態は中学3年間で終わってしまい、高校に入ると思春期の苦しみに打ちのめされ、欝と離人症を発症したと思います。思いますというのは、誰もかまってくれないし、自分でもどうしてよいかわからなかったから。また一気にどんくさい私に戻りました。今高校生の人がこれを読んでいたら、「一番苦しいときにいるけど、いつか時期が来たら抜けられるよ、苦しいときは、じっとやり過ごしていましょう」とアドバイスを送ります。

 

そのメカニズムはわかりませんが、年をとった今はどんくさい私と活発な私が半々に同居している感じです。調子が悪いと極端にどんくさくなるのは、虐待時のなごりかなとも思います。

 

まあ、そのおかげで有名大学を卒業し、いろいろ苦労したあげく念願の自営業を始めたのが30歳でした。学習塾です、25年続けました。子どもの頃楽ちんだなとみていたカナダ人の英語の先生の真似ですね。実際は楽ではなく、それなりに楽しくも苦しい営業でしたが、会社に就職するよりははるかに私を助けてくれた。40歳で中古のマンションを購入できたのも自営業ならではでしょう。当時企業で働いても差別社会の日本のこと、給料は男性の半分、とても女一人で家を買うなんてできません。

 

40年間必死に働き、年金をもらうようになり仕事に出なくてもご飯が食べられるようになりました。若いころ自殺未遂で終わっててよかった! 年を取った今は幸せだから。

 


だからこそ、若い人で死にたいと思っている人がいたら、とりあえず仕事だけしてて60歳まで生きてみてと言いたい。せっかく苦しみを知り、生きることについて考えることを知った価値あるあなただから、みすみす死ぬのはもったいない。社会の損失だと思います。同じような人たちと話してからでも遅くはありません。
私のこういう考えに賛成!っていう人に出会いたいなあ。無理かなあ。

 

PTSDをかかえながらの生活ですが、耐えて耐えていけば、いつかは自立していけるのです。その辺のノウハウも別だてでいずれ書きたいと思います。 !(^^)!

 


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