実父からの虐待が続いているさなかに一度母親に言ったことがある。どなたの回想を読んでも判で押したように母親は聞かないふり見ぬふりをするが、まさにその通りの反応だった。私はその一回で諦めた。実は母親からもビンタ、下着にされ家の外に出されるなどの身体的・心理的虐待を受けていた。
私はこの人たちを信用できなかった。けれど他人の誰に言えようか。今もひどいが今よりもっと専門家もいなかった。そういうことを発表する少女もいなかった。性暴力という言葉も、セクハラという言葉も、虐待という言葉すらない時代だった。
私は解決を先延ばしにするしかなかった。大学を卒業してもまだ、誰にも言えない日々が続き、PTSDと思われる症状はケアもないまま悪化していた。PTSDのもっとも効果のある治療は被害を早く話せて、受け止めてもらい、深い共感をえることなのだが、私はほったらかしの状態だった。
1990年代まで私は忘れたふりをして家族ごっこを演じた。証拠が欲しかった。とうとうチャンスがめぐり1992年に私は実父にわび状らしきものを書かせた。それから社会活動をすることになるが、その時に私は家族の真の姿を見た。それは1960年代性虐待をされていたさなかの態度と変わらなかった。わび状を書いたにもかかわらず実父は事実を否定し、母親もそんなことはなかったといい募った。妹からは死ね、きちがいと罵倒された。
私にいくらか残っていた家族らしい慕情はその時ぷつりと切れた。私はもしかしたら家族は理解を示してくれるのではないかと、せつない希望を捨てきれないでいた。でも、もういい。よくわかった。家族の中の力関係の弱いほうは見殺しにされる。世間体と生活が壊されるのなら、弱い腐った家族員は切られる。それが家族の中に加害者と被害者の両方がいる家族のやり方です。
関係はさっぱりと切ったほうがいい。ずるずると心を残して苦しむのは、被害者側です。切ることで、新たな地平線が見えてきます。