その後を生きる、矢川冬の場合

実父からの性虐待サバイバー。「もう、沈黙はしない‥性虐待トラウマを超えて」出版。社会福祉士。家父長制絶対ダメ。HSPシニア独り暮らし。性虐待を事由に明記し戸籍名変更。女性無料シェアハウス運営。趣味はどけち節約と終活と防災サバイバル

精神科医の書き言葉と話し言葉は別人格――書き手の本性は話しことばにあらわれる

男性の精神科医が書く解説書には「近親相姦(書くのも嫌だ!)」とか「いたずら(吐きそう!)」とか、まったく当事者の気持ちに寄り添わない言葉が無批判に出てくるから、私は男性の専門家が書く本は読まないようにしている。

 

それとは別に、書き言葉と話し言葉があまりにも違いすぎる人もいる。どちらが本当かというなら、話し言葉にその人の本性が出てくると私は思う。

 

私に「あんたは立っても座っても同じだ」と言葉の暴力をふるった精神科医もその種類の人間だった。まだ彼の本性が分からなかった頃、一冊だけ翻訳本を読んだことがあった。家族の害毒がいかに女性の心を蝕むか、繊細な筆致で共感的に書いて見せた。感涙ものでした。原作がそもそもいいからではあるが。1990年当時トレンドだったACに目をつけたのは先見の明があったということでしょう。金鉱脈を掘り当てたというようなことを言っていたような気がします。

 

その偽善的な書き言葉とは裏腹に、彼の治療は横暴な指示的なカウンセリングだった。クライアントをあんた呼ばわりし、上からものを言った。お世辞にも見た目が良いとは言えない彼は、私同様ずんぐりむっくり不潔感が漂っていたうえに乱暴な物言いをした。

 

クライアント中心主義の人たちは、彼とは一線を画していた。ところが、1990年代当時かなり多くのサバイバーが通っていました。その頃はまだ性的虐待へのカウンセリングをしている精神科医がほとんどいなかったせいでもあるでしょう。指示的な強い暗示に洗脳されてしまい神のようにあがめるサバイバーがいることが当時でも問題視されていました。

 

彼は信仰宗教のようにサバイバーの女性たちを組織して会を作り、その情報を集めることができたので何冊も本を書くことができたのです。まさに金鉱脈ですね。その結果、その筋の第一人者になってしまいました。

 

一度、ある光景を見た。小部屋で女優かと思うような美しい数人の女を前にして、教祖のように語り続ける精神科医、クライアントと思われる女性たちはただ聞き入るのみ。発言はしない。バタードウーマンは、たたかれ支配されることに慣らされてしまっているから、そういう状況をおかしいとは思わないとも聞いた。

 

そういう指示的なカウンセリングで、性的虐待からの心の傷は癒せるものだろうか。いや、性暴力からの出口は人それぞれだから、それで出口が見える人はそれでいい。

 

けれど、性虐待は親の支配を受け入れなければならなかったことから始まっているのだ。心や言葉や感情は叩き壊されて、死骸のような体だけを投げ出していた被害者たち。言葉を話せること、心を大切にして良いことを知らなかった、教えてもらわなかったから、ただされるままになった。受動的な被害者たち。

 

治療の現場で男の精神科医の指図のままに、唯々諾々と従順に従っているその姿は、私には虐待を受けているとしか見えなかった。本当にそれでいいのか。それがあなたたちの本心なのかと言いたかった。

 

子どもの頃、私は自分の自尊心が粉々に砕け散って世界中に飛び散ったのを見た。生涯をかけてそのかけらを集めなければならないと思った。受動的な自分の皮を破き、内部に息づく本来の自分を救いだす旅が私の人生だと思った。そのためには誰からの支配も受けないこと、能動的に生きること、自立することがとても大事だった。自分のことは自分で決める、誰からも侵害されない、

それが生きる意味。

 

私たちは書き言葉だけを読んで、その作者の本性を決めてはならない。話し言葉の卑しい人間からはできる限り離れることが大事です。

 

 

私は当事者の書いた本以外は読みたくないと思い、当事者たちの本のリストを作っている。それはそのうちブログ内で開示します。 

ここでは、当事者とは限らないが私が勧める本たちのごく一部を紹介します。

 

 

白川美也子「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」(2016、アスクヒューマンケア)

:白川医師は自身も性虐待の当事者であるとカムアウトしています。私は本人と面識はないので話し言葉がいいかどうかはわかりません。時々調子が悪くなるようですが、それは当事者であれば当たり前のことですね。私は本の中の黄金の幕の話がよかった。人に触られるのが嫌で外出を控えている身にとっては、黄金の幕を自分の周りに作るというイメージは有難かった。当事者でなければ出ない発想ですね。

 

下重暁子「家族という病」(2015、幻冬舎新書

:この人も面識はないがメディアで話している様子は、書き言葉とあまりかわらない。

社会の最小単位を家族に置くのではなく、個人に置くこと。大賛成です。最小単位が家族だとそこからはみ出たらもう生きていけなくなる。家族の秘密は他の家族に知られてはいけないことが、見て見ぬふり人間を作る。

憲法13条の条文は改正してはいけませんよ。安倍総理

 

 

森田ゆり

:「沈黙を破って」(1992、築地書館)出版の手伝いをした。まだアメリカにいた森田さんとはFAXでやりとりした。森田さんは話し言葉と書き言葉は寸分たがわず合致していた。いや、話し言葉の方が数段滋味にあふれていた。森田さんの書くものは間違いありません。

 

 

 

 

最後に、実は私も書き言葉と話し言葉が違う人間です。それがわかっているだけエライと思っています。話し言葉の時、私は感情の統制が取れないことがあります。少しでも上からものを言われようものなら、人が変わったように攻撃的になります。まるで、あの医者のようです。

 

だから、運悪く言葉の荒い人間と出会ってしまうと大変です。私が瞬間的に反撃するためすぐにバトルが勃発します。私の方は先に攻撃していないと自分では思っているので、いつも理不尽さと悔しさを感じます

 

 

いつになったら、穏やかな大人になれるのやら。。。