その後を生きる、矢川冬の場合

実父からの性虐待。「もう、沈黙はしない‥性虐待トラウマを超えて」出版。社会福祉士。少子化は家父長制が原因。HSPシニア独り暮らし。性虐待を事由に戸籍名変更。自立したい女性のための無料空き家あり。どけち節約と終活と防災サバイバルが趣味。

グッピー最後の1匹が死んだ。4年目の誕生日までもう少しだったのに、自ら水槽の外に身を投じた。

それは4月22日のことで、4年目の誕生日である5月15日まであと23日を残すだけだった。



私もひそかに5月15日を楽しみにしていた。常々、もう少しで4年になるからそこまでは頑張ってね、と声をかけたりしていた。

4年生きたグッピーは珍しいらしいから、お互い誇らしいよ、などと。

 

最近は年を取ったせいか、食欲は目に見えて落ちていたがオレンジ色の中に金色が混じるようになり色合いはきれいになった。人間も年を取ると白髪がふえて全体に白っぽくなるが、魚も色合いが変化するようだ。

大食漢の子で誰よりたくさんエサを食べていたが、食べているわりには大きくならず気性も穏やかな子だった。

だから、大きな子たちにつつかれたり、追い回されたりのグッピー人生だった。

けど、気性の荒い子たちは次々寿命を迎え、最後はおとなしめの2匹が残った。

 

 

 

 

最後から2番目の子も、数か月前に水槽から脱出して亡くなった

黒っぽい少し大きな子と今回亡くなった赤っぽい子は、それほどいがみ合うこともなく、2匹だけになったことを知ってか知らずか、一緒に泳いだり、餌を食べたり暮らしていた。

 

水槽から飛び出てしまう問題

ある日、黒っぽい子は水槽の外で死んでいた。

 

水槽がそれほど小さいことはない。人間に換算するなら2DKに2人という感じ、広くはないが窮屈ではない環境だと思ったのだが。。。狭かったのだろうか?

なるべく広い空間をと思い、水は多めに入れて水槽のふちまで1センチくらいになっていることもあった。それがいけなかったのかもしれない。

脱出事件がたまに起きるので、水槽にはふたをするようにしていたけど。

ふたを外すのは、水替えとえさやりのときだけにした。

 

最後の1匹になって気持ちよさそうだったけど

以来最後に残った赤っぽい子が1匹になったが、いつもどおり泳いでいた。

エサを横取りされたりつつかれたりしないので、気持ちゆったりしているようだった。

 

 

 

 

今回は4月21日に水替えをした。

二つある水槽を交互に使って、水替えをするときはもう一つの水槽のほうに引っ越しさせる。もう一つの水槽の水は汲んでから1週間たっているからカルキも抜けているはず。汚れたほうの水槽を掃除して新しい水を入れて並べて置く。

並べることで、二つの水槽の温度は同じになる。

水換えはだいたい1週間に1回程度。

 

 

水替えをしたその日も、新しい水槽で泳いでいる姿を確認した。その日、餌は1回あげた。餌をあげるとき以外はふたをしていたはずだったのだが。。

 

 

それでも、最後の2匹とも水槽の外に脱出して死ぬとは。

ある意味安楽死を選んだのだから、自然死より意思を感じて私としては好ましい。

 

 

翌朝いつものように水槽の前に行った

水替えをした次の朝、餌をあげようとふたを外して、いつものようにスプーンで水槽のふちをたたいても、いつもならすぐ顔を出すのに反応がない。

 

あれ、死んでいるのかもしれない、と水草をかき分け探したが姿が見えない。最近はちょっと静かだと、死んだかもしれないと思うようになっていた。

4年ということは、人間でいうと80歳くらいかなと思う、良くわからないが。

 

おかしい、と水槽の周りを見渡すと、水槽のわきに横たわっていた。色はオレンジ色に金色できれいだったが、つついてみるとカサッと音がしてすでに乾いていた。

 

 

いつ落ちたのか、見当もつかない。

水槽を替えて餌をあげたのは前の日の夕方で、その後はふたをして、次の日の朝まで水槽の前には行っていなかった。明かりを夜用に変えたのは夜11時頃だったが、水槽まで覗かなかった。その時間グッピーだいだい寝ているので。

 

いつ落ちたのだろう?

 

 

 

 

悔やまれるが、水槽を大きくする余裕は私にはない。いや、あったのかなあ。

水槽を大きくすると置き場所がないから、水替えはバケツに汲み置きして庭にでも出しておけばよかったのか。もし、もし、という後悔は尽きない。

 

 

 

 

山茶花の根元に埋葬した

紙にくるんで庭に埋葬した。

 

 

ハムスターの火葬

庭の山茶花の木の下には、20年以上も前に動物葬儀専門業者に頼んで火葬して葬式を上げたハムスターの遺骨が埋まっている。葬儀代は2万円だった。

手のひらサイズの小さい骨壺からカサカサと細い骨が出てきたが、ちゃんと頭蓋骨も大腿骨も確認できる。焼くのが上手だ。

聞くと、女の子が母親と一緒にひよこの火葬を依頼してきたことがあったそうだ。ちょっと火が強いと何も残らなくなるから、加減が難しいがやりました、と業者は自慢げに言っていた。

ハムスターの遺骨のそばにグッピーを埋めた。

 

 

思ったより喪失感がわく

4年間も毎日毎日、餌をあげて水草を買い増して、水を替えて眺めていたので、突然いなくなっても水槽をつい見てしまう。水槽を覗くのが4年間の習慣になっていたことに改めて気づく。

習慣というのは恐ろしい。慣性の法則っていうやつで、つい同じ動作を繰り返す。

 

 

そうか、いないのか。

でも、水草をかき分けて顔を出しそうな気がするのだ。



 

思えば、その子は水槽の中からよくこっちを見ていたことについ最近気が付いた。

試しに、手を動かしてみたら、グッピーも一緒にゆらゆらした。あれ、見ていたのか。

何度やっても動かした手と連動して右左に揺れる。手の動きを止めると、グッピーも止まって真正面から大きな目でこっちをみている。

こうやって、いつも見ていたのか。私は自分が観察者だと思っていたが、グッピーのほうでも観察していたってことが面白い。

 

1匹になってからの行動かもしれなかった。寂しかったのだろうか。1匹残ったのに気が付かないように、ダミーで白イルカのキーホルダーや貝殻を入れてあげていたのだけど。

2匹の時は、もう1匹から結構ちょっかいを出されて逃げ回って忙しかったから、水槽の外を眺める余裕はなかったかもしれない。

 

こっちを大きな目で眺めている光景を思い出すとなんだか悲しくなる

さて、友人のところに新しい子をもらいに走るのか?

しかしなんだか、その気にならない。

 

喪失感はあるのだが、水槽が小さすぎるとしたら環境を改善してからでないと、新しい子を迎えるとしてもその子も不幸だよね。

 

設備を新しくすることを考えるとつい億劫になる

それに、今あまり人と会いたくない。人と口をきくのが億劫なのだ。

このあたりが、私が共依存にならない理由かもしれない。

文章を書いたりXに投稿したりはいいのだが、実際に口と声帯を動かしてしゃべるのが億劫、面倒なのだ。

 

やっぱり独りが好き

私は人恋しくならない。誰かと話したいや会いたいということが極端に少ない。ひとりが全く寂しくない。いわんや、ひとりが心地よい。

 

4年間の習慣と日常に固執しない

4年間も毎日毎日餌をあげて眺めていた対象が突然いなくなって、そこは喪失感もあるし、無意識に水槽を眺めている瞬間もあるが、もう世話をしなくてよいという安ど感もある。

ずぼらな人間ゆえのことなのだろう。

 

 

 

ずぼらは習慣と喪失感を凌駕するということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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