その後を生きる、矢川冬の場合

実父からの性虐待サバイバー。「もう、沈黙はしない‥性虐待トラウマを超えて」出版。社会福祉士。家父長制絶対ダメ。HSPシニア独り暮らし。性虐待を事由に明記し戸籍名変更。女性無料シェアハウス運営。趣味はどけち節約と終活と防災サバイバル

木崎みつ子著「コンジュジ」を読んで分かったことの考察・・・シリーズ②

お願い

3月7日に書いたシリーズ①について大幅に改変しましたので、誤解を省くためにまず前回のシリーズ①からお読みいただければ有難いです。 

 

コンジュジ (集英社文芸単行本)

コンジュジ (集英社文芸単行本)

 

 

前回、私は木崎みつ子さんが「コンジュジ」を被害者が加害者と和解することをテーマに書いたのではないかと疑い、いろいろな人に「コンジュジ」を読んでもらいまた木崎さんにも直接創作の意図をお聞きしました。

 

その結果、「コンジュジ」に和解と許しの要素は全くなく、作者も和解という意図を込めていなかったことが分かりました。

 

曲解して読んだのは、私が抱えていた大きなトラウマが原因でした。そこで、なぜ私がそれほどまでに「和解と許し」という問題に強烈に反応したのかの理由を紐解くとともに、図らずも巻き込んでしまった木崎さんにもお詫びをしたいと思います。

 

 

 

原因となった現実に存在する専門家たちとの経緯についてはシリーズ③に譲り、

 

 

シリーズ②では紙面の容量の都合で「コンジュジ」を読んでくださった4名の感想を載せるだけにいたします。それぞれの方が忌憚ないご意見を寄せてくださいました。感謝します。

 

 

友人で当事者のDさんの感想:

※著者に対して思ったこと。:リアンの被害者に罪悪感を持たせる言葉(感じていた、気味の悪い、汚い、貰ったお金で物を買う、本気で抵抗しようと思えばできたはず)は酷いセカンドレイプ。当事者が絶対に言われたくない言葉がオンパレードですね。筆者はそういう意味では当事者が何に傷ついているのか等、色々見て学ばれたのかもしれませんね。

後半のジムの言葉(何としてでも周囲が子どもを守るべきだ~)や、筆者コメント、4年かけて性暴力問題のことを考え続けて執筆されたことなどから、この問題に強い思いを持っておられることが見てとれました。

※内容に対して:主人公とリアンが過ごす時間は解離状態を表しているのでしょうか。私は解離については(多分)経験がないので分かりませんが、辛い現実の中で深い妄想世界に浸った経験はあります。しかしその後のひとり暮らしのなかでのリアンとのやり取りや、父親の幻影にとらわれている表現(フラッシュバック?これはホラーだなと)は当事者として共感するところはありませんでした。私の経験したフラッシュバックとは違いました。

主人公のような当事者も、もしかしたらいるかもしれないけれどそれは一例で、被害者=みんな主人公のようになるとはならないですからね。

この作品は文学作品。主人公は現実ではない世界に時に救われ、翻弄され、慰められ。

 

著者の方は「当事者の方の神経を逆撫でするかもしれない」と心配されているのですね。これは読みものなので作品は作品として、懸念はご自身の言葉で「あとがき」などで表現してフォローされればいいのではないかな~と言うのが私の意見です。

                        (Dさん寄稿文抜粋)

 

 

戸籍名を日本で3番目に変えたAさんの感想:

幼い子供が救いを求める場所もなく父親に虐げられていくことや、自由にならない生活に耐えながら大人になっていくことにも胸が痛くなりました。
虐待の内容としても暴力、性的暴行はもちろん、ネグレクトのようなこともあり、決して父親は許されてはならないと思います。
また、虐待を知りながら救いの手を差し伸べないおじさんおばさん、『魔が差した』という無責任な言葉に、いつかの自分を重ねて合わせてとても悲しい気持ちになりました。
加害者が死んでいたとしても虐待に気づいた時点で加害者をボロクソに批判すべきだというのが私の考えです。
少しでも加害者を擁護するような言葉や被害者を批判したり傷つけるような言葉が出た時点で、どれだけ世話になった人でも即敵と見なしますし、とくに関心を示さず軽々しく扱うことにも苛立ちます。

結論、木崎さんの心配されていた『被害者の神経を逆撫でするもの』にはなっていないと思います。

性被害者にはパートナーと加害者とを重ねてしまう人もいるみたいですね。
二人は真逆の存在なのに。

加害者に対する個人の感情や許す許さないは『こうであるべき』という正解がないので難しいところですが、私が今回読んだ中では『許すべき』という強い意思は感じられませんでした。
                        (Aさん寄稿文抜粋)
     

 

 

ジョヴァンナさん(id:giovannna)の感想:

想像力豊かに書かれた、優れた文学作品と思います。

 

しかしながら、当事者の手記を読んでそこからインスパイアされたと発言すること。

また、わざわざそれを著者である矢川さんに知らせてくるところが、どうにも気分が悪い。

これを矢川さんが読まれたこと、

読まざるを得ない立場に追い込まれたという事実が重苦しく、胸がふさがって、とても冷静な気持ちでは読めませんでした。

 

私は、過去のある時期にフィクションに触れられない、触れたくない、楽しめない、という時期がありました。

フィクションなんて、小説なんて虚しい。全ては絵空事と感じました。

自分の背負っているものが重すぎて、フィクションを楽しむ心の余裕を失っていました。

特に人が死ぬミステリーだとか、そういうものがキツかった。

フィクションの中でさえ、だれかの命や体を傷つけられるのは見たくない。

そういうデリケートな状態にあったのです。

(今は状況が変わったことにより、絵空事絵空事として受け止め、楽しめるようになりましたが)

 

例えばですが、もしも愛する人がひき逃げにあったり、

理不尽にも強盗に殺されたりしたら??

そんな経験をした人は、小説や映画の中で人が轢かれたり、殺されたりするシーンを見ただけで、パニックになり、卒倒してもおかしくないと思います。

現実がつらすぎる人にとって、フィクションに傷つけられることって当たり前にあると思うんです。

 

表現する人はそのことをあらかじめ覚悟して発信するべきです。

木崎さんは失礼ながらその覚悟が足りないのではないかと、私は思います。

なぜ、矢川さんにコンタクトを取ってこられたのでしょうか?

この点が疑問です。

 

この作品によって当事者の方が救われるなんてことは一つもないように思えます。ただただ、虐待のつらさ、そして空想の世界に逃げ込んでなお、救われることのない苦しさを描いていると私は受け取りました。結末にも一切救いがない。悲しい作品と感じました。

                      (ジョヴァンナさん寄稿文抜粋)

 
※矢川注 
この件に関して木崎みつ子さんとやりとりをしたところ、反省の色を示されていました。

矢川の著書「もう、沈黙はしない」に「感銘を受けた」という木崎さんの発言がありましたが、
「そこからひらめきを得て小説を書いた」のではなく、
「著書を読むことで書き続けられた」という意味合いだそうです。
 
また、木崎さんから小説を読んでもらいたいと言われたのは事実ですが、
事前に矢川さんを傷つけるかもしれないのでと、内容の説明はされていました。
 
誤解が生じないよう矢川が付け加えました。
 
 
 

echo168さん(id:echo168)の感想:

小説としての良さと現実の問題とが別だという意味では、感想を書きにくく、優れた文学作品に対する要求の多い批評になってしまうと思います。

 私が個人的にこの小説の一番の読みどころだと感じたのは、幻想的に美化されたリアンのゾッとするほどの醜さが見え隠れしだすあたりです。主人公は自分の「ソウルメイト」で、自己自身の一面でもあるリアンの醜さに目を向けていくという仕方で、自己と現実の醜さを受け入れていきます。善美な面と醜悪な面とに分裂してしまっている自己(=現実)の統合というのは、比較的普遍的な心理上のテーマで、そこが多くの読者にとって、この小説にリアリティーが感じられるところではないでしょうか。私自身は、これがこの小説の中心的なテーマなのではないかと思いました。 

 しかし性虐待の実態においては、被害者にとって被害は自己固有の醜さではないし、被害を受けた現実は、ただ受け入れて折り合いを付けられることでもありません。被害者にとっての途方もない課題は、本来は自分自身と完全に無縁で、自分が引き受けるべき責任をもたない問題を、なぜか自分の問題として、自分が乗り越えていかなくてはならなくなることではないでしょうか。受け入れる筋合いのないことを受け入れさせられており、それをどう解決するかという課題です。これは、児童期の性虐待でなくても(またそもそも性被害でなくても)、常軌を逸した事件の被害一般に、しばしば当てはまることではないかと思います。

 主人公が父親に襲われている場面で、いきなりリアンの幻影が現われて助けられるという設定は、フィクションにしても唐突な印象を受けましたが、全体を貫いている現実生活と幻想世界(精神障害としての「妄想」とは質が異なると思うので、「妄想」という表現はやめておきます)との交差については、リアンについての伝記を介したものとなっているため、何の違和感もない自然なつながりになっており、小説家の力量を感じさせられました。ストーリーの半分は憧れのロック歌手とのファンタジーの世界なので、読者にとっては読み易い小説だと思います。

 

小説について、随分いろんな読み方があるようだということに驚き、とても興味深いと思いました。

 

たぶん、被害当事者の方には、ご自身の問題意識(加害者を許すとか許さないといった)からリアン=父親に見えるのではないかと思いますが、

そうした問題意識の外にいる一般の読者には、それは思いもよらない読み方で、

「このようにして被害者は加害者である父親を受け入れて一体化する」という想像が湧くことはないと思うので、ご心配になっている点に関しては、大丈夫ではないかと思います。

 

あの小説の中では、被害者の加害者に対する憎しみも、ほとんど取り上げられていなかったし、被害者が一回怒りを爆発させても、その直後に加害者が死ぬことでうやむやになっているし、

父親としての加害者との関係の解決が、わずかに示されているのはほとんど、ジムとの会話の中だけだったように思います。

そういう意味で、問題の扱い方としては軽くなっていて、一般の読者は、あの小説を読んでも、被害者が父親との関係をどう乗り越えるかという重い問題には入り込まず、

大概はロック歌手の話や、ショッキングな場面や、ハチャメチャな展開や、

夢のような幻想に興味をそそられながら、

自分自身の人生上の辛さを、主人公に投影して読むのではないでしょうか。

 

いずれにしましても、一つの小説をもとに、いろんな感想を出し合って、

こうした問題について議論することは、とても意義深いことだと思います。

                      (echo168さん寄稿文抜粋)

 

 

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いかがでしたでしょうか?

私がいかに被害体験に根差した読み方をしていたか、いや私は被害体験からしか読み取れないことを知りました。

それを認知のゆがみ、偏りと一刀両断されるのか、はたまたそういう読み方しかできない私に共感を寄せてくださるかは、皆さんにおまかせします。

 

次回のシリーズ③では、「コンジュジ」から離れ、被害者に和解と許しを求める専門家グループとサバイバーグループについてレポートいたします。(矢川冬)

 

 

 

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