悪夢を見たのは久しぶりだ。父の日が近づいているから危ないとは思っていたが、案の定ひどい悪夢を経験することになった
年に数回は両親の虐待にからむ悪夢をみてうなされて目が醒めた。
が、この数年はもう見なくなっていた。
いろいろ日常の小競り合いはあるものの、精神が壊れるようなことにはならなかった。精神状態は安定していた。
それが、あっという間に崩れた。
テレビを捨てたから主にラジオを聴いている。報道やニュースが中心だ
ラジオは言葉が過剰だが、テレビのように映像に依存する分が少ないから、言葉のコンプライアンスが効いていて比較的安心して聞ける。
若い女性タレントだけチャン呼びする芸人などは既にリストアップしているから、そういう人物が出演したらチャンネルを変えることができる。聞かない選択ができるところが良い。
しかし、
今年はニュースなどで、やたら父の日を宣伝する。
毎年そうだったろうか。ニュースを聞いているなかに不意打ちをされることが何度もあった。スイッチを切る間もなく、話題は次に流れてしまう。
そして、精神の均衡が崩れた
夢は二日前に見たが、その内容を描写できるまでに時間がかかった。表現できないとも思っていたが、今日になって夢の内容に触れられそうな気がしてきたから書いてみる。
夢の内容
小さな浴槽にお湯がはってある。中学生か高校生くらいの私は入浴しなければならないのだが、父親が会社から帰ってくる夕方7時が近づいていた。母親は仕事で出かけている。家の中は暗く夕食の支度もない。私は焦っている。焦って湯船に入ろうとしたとき、誤って父親の掛け布団を浴槽の湯の中に落としてしまう。なぜ浴槽の上に父親の掛け布団が拡げられていたのか不審に思いながらも、あわてて濡れた掛け布団を浴槽から出そうとした。
父親がもうじき帰ってきて濡れた掛け布団を見られたら叱られると恐怖にかられ、さらに焦るが、掛け布団はもはやずぶ濡れになっていてずっしり重く引き上げられない。
汗びっしょりになって目覚めた。ソファでおかしな姿勢で寝落ちしていた。
両親が初めて建てた家
その浴槽は、両親が初めて建てた家の狭い浴槽だった。隣は汲み取り式のトイレだった。私はその浴槽が狭くて汚ないから入りたくなかった。
玄関から浴室の扉が見える。父親が帰って来て不用意に脱衣所の扉を開けられれば、洗濯機しか置けないような狭い脱衣場で服を脱ぎ着る動作を見られてしまう。だからいつも大急ぎで着替えをした。
入浴はかなりのストレスだったのだ。それが悪夢に反映したのだろうか。
高校1年の時、母親に無理やり家族4人でその半畳くらいしかない浴室で入浴させられたことがある。
4人がやっと座れるくらいのスペースで、母親は父親に私の背中を流すように言った。私は父親のタオルが背中の範囲から出ないように脇をしっかりしめた。
妹は幼稚園児くらいで、なにも分からず喜んでいた。
高校1年の女子を父親と入浴させようとする母親は当時現役の高校教師だった。どういうつもりだったのかはとうとう聞けずに終わった。
母親にはっきり縁切りを宣言したのは45歳のときだった
母親と縁を切れたのは私が45歳になって自分で買ったマンションのローンを払い終わった時だった。家がないことが私にとっては死ぬほどの恐怖だった。同時にお金がないことがうつ状態になるほど怖かった。
家と金のない恐怖
家も金もなければ、郷里に帰り虐待があった家に加害者と一緒に住まなくてはならない。私は苦界に身を沈める度胸がなかったし、ヤクザが仕切るそういう世界も虐待と同じくらい嫌悪していた。行き場がない苦しさからやみくもに働いて節約した。
教えてもいない電話番号に母親から電話がかかってきた
母親からの電話に「それでも親か、縁を切る!」と怒鳴ったら、
母親はどうしてなのか「うん」と答えた。それだけだった。それで終わりだった。その後なんの連絡もなくもちろん遺産も慰謝料もなく、私は一人で財産を築いてきた。
娘の被害に寄り添わず墓守を優先する情けない母親
もしかしたら、母親も私と縁が切れることを望んでいたのかもしれない。遺産相続を考えなくてもよいから楽だと思ったのかもしれない。
私が墓を守るのか守らないのかを知りたかったのだろう。はっきりしてほっとしたのかもしれない。妹も私が墓を守らないのなら「男の養子を入れるから」とトンチンカンなことを言っていた。私がそんなことに頓着するとでも思ったのだろうか。
虎の威を借りる妹の生き方は間違っている
妹は代々政治家を出している田舎の富裕層一族に嫁ぎ、各種施設の理事長夫人に収まっている。税金から補助金を引っぱっての繁栄だ。恐らく孫も何人もいるだろう。
妹も私の存在をできることなら消したかったのだ。嫁いできた女の実家で性的虐待が起きていたなど明らかになったなら政治家にはマイナスでしかない。妹にとって姉が父親によって性的に凌辱された不幸より、そんな不幸な傷を晒す姉をこそ抹殺したかった。ひたすら自分の生活のために。
氏名変更し虐待家族と縁を切る行為は、私自身にも虐待した家族にも安泰をもたらすことになった
加害者を殺したり、刑事事件にできないなら、私の無念を晴らすほかにどんな手段があろうか。
今でこそ、若い被害者たちは弁護士の支援を得て父親を刑事告訴し有罪にまで持ち込んでいるが、私の時代は60年前、1960年代だったから考えられなかった。
1970年代でさえ、精神科医に「嘘をつくな」と否定されたものだ。弁護士や裁判所に理解させるなどとんでもなかった。
残った報復手段は氏名変更し家族と縁を切るくらいだった。
氏名変更し虐待家族と縁を切ることは両刃の剣なのだ。しかし私は虐待家族の安泰な生活をそのままにはさせない力を持った。
詳細はその力を行使しなければならなくなったら明らかにできるでしょう。
恨みをはらす私の闘いはまだ終わっていない。