PTSDからくるストレスで血圧は若いころからずっと高かったが、心筋梗塞でポックリ逝けるならもうけもの、くらいに思ってきた
私は長生きしたくなかった
10歳で実父から性虐待を受け、その後もホモソーシャル社会から数えきれないくらいの性被害や女性差別を受けた。生きているだけで貶められる、そんな人生なんてなくて良い。楽に死ねるなら、そのほうがよいといつも思ってきた。
そう思いながらも、
長生きしてしまった今は、もはや欲しいものなんてない。放浪やひとり旅もたくさんして、仕事もした。お金もいらない。もう、いいだろう。
減量を断念したことを医師に告白したら、医師は断固として私の血圧を下げることを決意したらしい。
その日測った血圧の値は、180-100。
医師曰く、
「下が高いのは問題だから、薬を飲みましょう。」
私、
「脳梗塞は寝たきりになるから嫌ですが、心筋梗塞ならぽっくりいけるから嬉しい」
この私の言葉に医者は怒り心頭、決意したらしい。
「このまま放置してあなたに何かあったら、診ていた私が何してたんだと言われるから困るのよ」
この医師の言葉が私の心を動かした。その通りだ。死ぬのは私の勝手だが、その事実で悩んでしまう人がいる。それは私の本意ではない。私が死ぬことが人に迷惑をかけるとは思わなかった。
「先生のお言葉、心に響きました。飲みます。」
病院に通っておきながら、死にたいと言うのは傲慢?
痰がからむ気管支炎のために、夜も眠れなくなり、女性の医者のいる病院を見つけて通い始めた。死ぬのは受け入れるが、苦しいのは嫌だ。
病院に行けば、必ず血圧測定され必ず高圧剤の服用を勧められる。降圧剤は飲み始めたら一生飲み続けると聞いた。私はどんなことであれ外部から拘束されるのが嫌なのだ。
だから病院はできるかぎり避けてきた。
痰がからむのは辛いから、その症状だけ取り除きたかっただけ。
ところが、世の中は自分の思い通りにならない。人間社会で生きているかぎり医師の仕事も尊重しなければならない。
医師に「私が困る」と言われれば、もう折れるしかない。
最初のアムロジピンOD錠5mgを2週間服用した結果
血圧はすぐにすとんと落ちた。と言っても平均155-90くらいではあるが。10日後から胃部のむかつきが始まり、14日目にはとうとう朝ごはんが食べられないくらいになった。
食事をしないで薬を飲んでよいか、医師に電話で確認する。数日後に通院する約束で薬を休止して良いとなった。
降圧剤を止めても3日間は160-95くらいをキープしていた。
バルタルサン錠40mgに薬を変えてみることになった。2週間後に再度通院の予定
新しい薬はきょうまでに7日目。これといって副作用はでていない。
飲み始めの5日間は飲んでいなかった影響か、180-100を出すこともあったが、
今朝は145-80という若いころでさえ出なかった驚異的な数値が出て驚いた。
マイスリーで眠れるようになり寝酒の量が極端に減ったことも要因だろうか。もともとアルコールを美味しいと思ったことがなかったから、飲まずに済むならそのほうが楽。
降圧剤は一度飲んだら、飲み忘れはできないし止められないと聞いていた
が、それは正しくないらしい。肥満を解消して血圧が下がれば、降圧剤は止められるとのこと。
でも、降圧剤を飲んで血圧が120-80にまで下がって降圧剤を止められた人を私は知らない。
もし、そういう方がいらっしゃたらお知らせいただけると有難いです。
高齢者は少し血圧が高いほうが動けるらしい
私は指先、足先がいつもぽかぽか暖かい。これは抹消血管にまで血液が循環している証拠だ。
下の血圧(拡張期血圧)が高いのは、抹消血管に動脈硬化があるためで手足は冷えるそうだが、私は熱いくらいいつも暖かい。
どうなっているのか。
血圧が若いころから高い理由を医師に話した。虐待がらみのPTSDのことを話すのは、結構心理的負担を招く。
「あなたに突然何かあった時、家族もたいへんでしょ。」と医師が当然のことのように言うので、
「家族とは私のほうから縁を切りました。虐待が原因で」と、
子どもの頃の虐待が原因で血縁すべてと縁を切ったことを開示した。虐待とは言っても性虐待とは言えなかった。
私の意識がまだまだ振り切れていないと気づく。
それでも医師は、あっという顔をして納得したようだ。
「ずっとストレスがあったということね」と女性の医師は私の顔を見ないでつぶやいた。
「はい、若いころは眠剤をもらう方法が分からなかったから、お酒の力を借りて眠っていました。それ以来アルコールは毎日飲むようになりました」
20代から毎日アルコールを飲んで眠っていたにも関わらず、アルコール依存症にはなっていない。最近では350mlの発泡酒を飲み切れないこともある。
「虐待」という言葉が何の説明もなしに通用する世の中になったことが感慨深い。
30年前、学習塾の運営に余裕が出てきたので、週1で啓発活動と自助グループを始めた。その時「虐」という漢字を自分の経験の中に初めて取り込んだ。親が主張する教育的折檻というものを「虐待」と名付けようと大学の研究者や福祉関係者、医療関係者がそれぞれの立場で発言をし始めた。私たち被虐待者も体験を話し始めた。
大きな驚きや軽い反発を受けたが、一般の人もおおむね話は聞いてくれた。
しかし、進歩的女性の集まりと思い、壇上で体験を話した時、年配の女性が「また、その話い?蚊に刺されたと思っていたらいいんじゃないの?」と発言した。
「また」ということは、その女性は女性の集会ですでに私の話を聞いていたということだ。わざわざフェミニストの集会に頻繁に出かけるくらいの高い意識があると思ったら大間違い。なかには、集会を妨害するべく鼻息荒く参加している杉田水脈のような家父長制から抜けられない女性も入っている時代だった。
しかし、「虐待」という言葉は、徐々に社会的に認知されていった。
今や、「虐待」も「性虐待」(医療的には性的虐待と表記されるが、私は性虐待を使っている)も、何の説明もなく日常生活で通用する。本当に感慨深い。
15年前はまだ浸透していなかった「性的虐待」の真実
職場で知り合った年配の看護師に芯がありそうだから大丈夫と思い、実父から性虐待があったと言ったとたん、「えー!、うそー」とファミレスで素っ頓狂な大声をあげられたので、「あ、何でもない」とすぐに話題を変えたことがあった。
がっかりした。
まだ、そんな人も残ってはいるが、真実は一つだからきっとすべての人が虐待は犯罪だと正しく理解する日も来るに違いない。
年をとって啓発の活動量は減ったが、私は死ぬまで諦めないよ。
性虐待は力で支配しようとする犯罪である。
私たちは暴力の犯罪被害者である。
私は力で支配しようとする人間を拒否する。