子ども時代、私は親から活動的に動くことを禁じられていた
前回のブログで車の記事を書いて気づいたことがある。私は、18歳まで親から自由に行動することを禁じられていた。すっかり忘れていた。思い返すと、激しく抵抗することもなく私は唯々諾々と従っていたのだった。
家から逃れるために大学に入ることを計画する
虐待親の顔色を窺った
働きながら勉強するには、私は頭が悪すぎるし体力もなかった、おまけに極端な低身長だ。大学の費用を金だけは持っている虐待親に出させるのは理屈に合っている、慰謝料として。そして大学を出たら縁を切る予定だった。
他人なら最初から縁など考えなくてよいのに、加害者が身内なばかりに面倒なことになる。
虐待など関りのない人生を送ってきた方は、ここまで読んで家族への強い嫌悪感に嫌になるのでしょうね、きっと。でも、口に出さないが、加害、被害関係に陥っている家族は結構多いのですよ。
大学に入って家から無事に逃れることだけを考えていたから極端な制約をされていることに頭が働かなった。下手に逆らって自立心を見抜かれては大学に逃げるための費用が出ないから困ると思っていた。10代の私はとても弱くて自分に自信がなかった。
ずるくて姑息な手段でもいいから、逃げ延びたかったのだ。どこかにそんな皇族がいましたっけ。
公立高校の教師が同時にキャバレーを経営するカオス
公立高校の教師だった母親は今の教師とは違いかなりの高給取りだった。母親の給料は万年平社員の父親より多い。ダブルインカムで潤っている家庭だった。そのうえ、色々ないきさつで母親はエロバーを経営し始めた(この辺は「もう、沈黙はしない」に詳しく書いた)。
住居はエロバーの2階だ。そんな状況で私は大学入学の準備を黙々としていた。
こういう状況で父親による長女への性虐待は始まったのである。
だから、私は女性の性を売るたぐいの水商売を嫌悪している。女性の性を売り尊厳を損なうことは、全女性の地位を下げることだ。
公立高校の教師が水商売などできないと思うのは生ぬるい。このキャバレーの件も別記事で書かなければならないボリュームの為、後日記す。
昔の田舎の日本は今よりもっと男に都合の良い社会システムだった。男相手に女性を消費する商売はおとがめなしで、見て見ぬふりだった。
ジーンズは20歳で初めてはいた
貧乏から這い上がった成金は概してケチなものだ。買ってもらえるのはすべて母親の気に入ったものだけ、子ども本人の希望など通らない。赤やピンクのワンピースを着せられ、先のとがった転びそうな華奢な靴を履かされた。まだ自分の好みもセンスも育っていない子どもには異を唱えることは思いつかない。周りの子どもが履いているのにジーンズも禁止だった。
18歳で予定通り大学入学という名目で家を逃げた。しばらくすると自分の好みの色が青や緑や茶色だと分かった。
20歳で初めてジーンズを自分で買った。
自転車は30歳で乗れるようになった。
小学生の頃、クラスの子どもたちが次々自転車の練習を校庭で始めていた。楽しそうにすいすい走り回る子どもたち。
私も自転車に乗りたいと親に願い出たが却下。自転車に乗れるようになると遠くに行くからダメだという理由だった。母親本人は体育大学時代のレオタードを着て平均台で片足を上げている写真があったが。
小学生に自転車を禁止することは酷だ。自転車にも乗れないとクラスメートにバカにされたのは言うまでもない。
30歳を目前にした頃、知りあいに教えてもらう機会があって自転車の練習をしたら、数日で乗れるようになった。ケンケン乗りまでできた。嬉しかった。
車の免許は47歳で取った。
私は自分を障害者だと思っていた
私は身長が異常に低い、実父から性虐待を受けている間に小学5年生で身長が止まったからだ。私は自分を障害者だと思っていた。実父から性虐待を受けしかも障害者になってしまった。
生きる意味を見出すまでには度重なる自傷行為と長い年月が必要だった。
だから、車に興味はあったがペダルに足が届かないと信じ込んでいた。免許を取るとしたら障害者用のコースがある公設の試験場に行くしかないだろう。
3年間の自転車通勤の結果は
学習塾を開設してしばらくは電車で通勤していたが、マンション購入の頭金で持ち金を使い果たした。電車代を浮かせる為に自転車で通勤することにした。
マンションと山沿いにある教室間はほぼ15キロメートル。高低差は分からないが、家からはずっと登りで自転車だと1時間半、帰りは下りになるから1時間ほどだった。電車通勤しても同じくらいの時間がかかるので、自転車通勤は良い考えだと思った。自転車通勤は3年続いた。
しかも、3年の自転車通勤のおかげで私の両足は膝がキュッとしまった長距離走選手のような筋肉質に変わった。
ある夜、台風が来てしまった。暴風雨の中びしょ濡れで必死の形相で自転車をこいでいる私を二人連れのサラリーマンらしき男たちが憐れむように見た。今でもそのさげすむような表情を思い出す。
ある日、教室にむかっていた。信号で一時停車していざ自転車に再度乗ろうとしたのだが、どうしたわけか、乗れない。乗り方を忘れてしまった。
その日は自転車をそこに置いて、バス停まで行きバスに乗った。遅刻だ、携帯電話のない時代だ、生徒が教室の外で待っていた。とんでもない失態。この時のトラウマでときどき授業に遅れる夢を見るようになった。
帰りはタクシーで自転車を置いた場所まで戻り(自転車は盗まれることなくそこにあった)、自転車を押して家まで徒歩で帰った。その日の帰宅は教室から家まで4時間くらいかかった。
とうとう自転車に乗れなくなった
その日を境に自転車に乗れなくなってしまった。楽しいと思っていたのは心の表層であって、体は悲鳴をあげていたのかもしれない。
被虐待者あるあるで、苦痛を苦痛と感じないことがある。普通の人から見るとどうして?というようなことがある。逆に小さなことを受け付けないこともある。私の場合は人に触られること。肩に触れられただけで飛び上がる。怒りがわく。まさに、どうして?なのだ。
電車通勤は辛い
電車通勤は辛い。背骨を精一杯伸ばして吊革に中指が届くぎりぎり、座席に深く座ると足のかかとがつかない。他人からはよーく見ないと分からない程度の不具合だが、本人は常時変なところに力を入れたきつい姿勢を保たなければならない。しかも、無理をしていると察せられないように。
車の免許を取ろうとした。なんだ、足届くのか!
試しに自動車教習所に行ってみることにした。足が届くかどうか運転席に座って見ようと思った。教習所の係に案内されたのは普通車。これじゃ無理かも、座って椅子をだいぶ前に移動させたら、届いた!
届いたでしょ、と係は満足げだ。教習代が入るから私より嬉しそう。なんだ、届くのか、ならもっと早く免許を取っておくべきだった!
自動車教習所は氷地獄
それからは仕事と教習所通いの日々。教習所は若い男が多いせいか冷房がきつい。ひざ掛けやセーターを持ちこんでもなお凍える。
学科が続いていた頃とうとう30代からかかえていた子宮筋腫が暴れだした。痛みに耐えかねて病院へ行くと、すぐ手術決定となった。教習所へ休学届けを出し(休学は9か月まで認められる)、子宮全摘手術を受ける。この手術の件も別記事を立ち上げられるほど波乱に満ちているので後日記す。
入院の為に臨時講師を募集すると5倍の倍率で応募が殺到した
ほぼこのようなあやしい広告をだしてみた。
この話も別ブログになるくらい盛りだくさんなので、詳細は後日。とにかく私が1か月不在の間に任せられる10人を採用し、後を頼み入院する。この時点で友人の協力で教室は2か所になっていたためそのくらいは必要だった。
公立高校に入れればよいだけの補習塾なのでちょっと気の利いた大学生ならすぐ講師になれる。上品な高齢女性も一人だけ採用してみた。前からいる講師5人を中心に配置する。丸々休む私の手取りはほとんどない。
階段から落ちる、仮免も落ちる
入院手術から戻るとすぐに、今度は教習所の階段を頭から転げ落ち顔面強打。階段上で笑った若い男、お前だ、忘れないからな。
大学病院へ行くも、何もできないからバンソウコでも貼っておけと言われそのままあっさり帰宅。右頬骨が青黒く脹れて右目が半分しか開かないのにね。
たまたま、講師たちを塾長入院の配置のままにしていたので、生徒の前に顔を出さないで済んだ。入院シフトを1か月延長する。皿屋敷のお岩さんのような顔面は普段より何倍も怖いから見せると子どもが泣くかもしれない。
仮免の罠
学科は得意だから1回で合格だったが、仮免で遠くの信号のない横断歩道に人が一人ボーと立っていた時、ガツッと教官がブレーキを踏んだ。何が起きた?
あそこに横断者がいるでしょ、一時停止しなければという。
いや、あれ10メートルも先の横断歩道であの人渡るかどうか分からない感じでボーと立ってますけど、もう少し近づいてから停止してもいいでしょ。と思ったがその場では言わない。
後で、会社の人間に高齢者をわざと落としてんじゃないよねと聞いた。
あれは、絶対ヤラセだ。
と言う訳で仮免に1回落とされて次は受かった。47歳の高齢者は金があるから何回か落としても大丈夫と考えているとしたらおかしいから。教習代は年齢と同じ分だけとられるというが、私は途中休学もあり年齢以上60万円くらいかかった。
車がないと生きられない不健康な体質になってしまった
産まれてこのかた、健康的な生活をしたことがない私にも分かるくらい、コロナ下の現在は不健康な生活をしている。車所有がそれに拍車をかける。最近のスーパーは車で行ければ、ゴミ出しも買い物もできてしまう。
しかし、この便利さをいつかは抜け出す日が来る。
それは高齢ドライバーとして免許を返納するときだ。
親から教え込まれた不活発な生活を返上してから死ぬつもり
それが私のリベンジ。