1985年以降為替がどんどん円高になった。240円、160円、150円となり、海外旅行が大盛況だった
2024年に1ドルが160円を越えて円安だと大騒ぎをしているが、
私は1988年1ドル160円が円高でお得感があった。そこで円高の風におされてニュージーランドに一人旅をした
円高になったから、お得感があったからで大勢の日本人が海外旅行を楽しんだものだ。
私の一人旅はツアーではないから3月というオフシーズンにもかかわらず高くついて、
お土産代など入れて、わずか1週間の旅なのに(そのころは生徒が60人くらいいて、授業を休んで外国に研修に行く名目だったから土産は必要)総額で50万円くらいかかったけど、1ドル360円時代に比べたら半額以下。
30歳代は家の頭金1000万円を貯める10年だった。節約の励みにするため300万円、500万の節目に海外旅行をする目標を入れた。
300万円の時は以前英語講師をしていた会社の添乗員兼業の女性社長からツアーの人数が足りないから入ってくれないかと頼みこまれて、仕方なく30万円払ってハワイ・アメリカ西海岸のツアーに参加したがサンザンだった。どれだけ酷かったかはそのうち書くかもしれない。
その社長には大きな恩恵をうけ感謝しているが、その悲惨なツアーを経験させられたことでチャラだと感じる。
500万円たまった時ちょうど1ドル160円、ニュージーランドドル75円だったからニュージーランドに行くことにした
そういう理由で、
500万円たまった記念には一人で海外に行くことにしたという訳。行き先はその時友人が住んでいたニュージーランド。オークランド空港にその友人が来てくれて、私としては全く一人ではいられなかったが、感謝しなければ。
オークランドでは彼氏を連れてきた友人と夜レストランで食事したり、日本での生活とあまり変わらなかった。ビルの裏道にたむろしている不良たちも日本のおなじみの光景。
ちょっと後悔しているのはイケメンニュージー彼氏を脅したこと。「彼女を悲しませたらゆるさないよ」とね。余計なお世話だった。その後彼らは結婚し双子が生まれたが、結局離婚して彼女は日本に帰国。だから、余計なことを言っちゃいけないってば。
気持ちの悪い日本人男はどこにでもいて、迷惑をまき散らしている現実
外国を一人で旅したかった私は、彼女たちから逃げるように次の訪問地をロトルアにした。マオリが多く住む地域に大きな農家がホームステイを営業していた。
が、
ロトルア行の前の夜に泊まったホテルで嫌なことがあった。ニュージーランドなまりの英語にもなれてきた頃、隣の部屋から日本語のようなものが聞こえる。男の声で「サビシイヨ」と聞こえるのだ。え、まさかそんなことあるか?
とりあえず、夜のうちにフロントにその件を報告し注意を喚起した。こういう嫌な思いをしなくてよい世界はいつ来るのだろう。
朝チェックアウトの為にカウンターにいると、やっぱり日本人らしき小柄な男がいた。ホテルの冷蔵庫の中の飲み物を飲んだかどうか聞かれているのに、いっこうに英語が分からないらしい。試しに日本語にしてやったら通じたからやっぱり日本人だった。そんな簡単な英語も分からず、よくもまあニュージーランドなんかに来たものだよ。
夕べの気持ち悪い男は奴だろう。
ホテルの人に感謝されつつ、ポーターを急がせてスーツケースをバスまで運んでもらう。「そんなに急がなくても大丈夫」とポーターが言うが、私はあの気味の悪い日本人から離れたいだけ。
バスの窓の外に田舎のおばちゃんが2人いて、私に「どこから来たの?」と聞くから、「日本。あなたたちは?」と聞くと「オーストラリア」と答えた。なるほど、近いからね。2人に見送られてバスは出発。
ラスベガスでも田舎のおばちゃんに話しかけられたことがあったが、田舎のおばちゃんは世界中だいだい同じようなくすんだ色のズボンにシャツを羽織っている。私も同じような臭いがするんだよ、きっと。なんだか、安心する。
ステイ先の朝食は垣根からパッションフルーツをもいで食べる。
農家は広い敷地に馬、牛、羊などを飼っていた。羊が寄ってきて可愛いから手を出そうとすると、ステイ先のマザーに「羊は気性が荒いから気をつけて」と言われた。眠るために使う穏やかな動物ではなかったのか。
朝ごはんには垣根にしているパッションフルーツの木から実をもいでくる。憧れの自給自足。小型のパンがとてもおいしい。
近所のスーパーに車で連れていってもらったが、玄関にも車にも鍵をかけない。驚いた。
スーパーに味噌が売られていて、ホストマザーが夕食には味噌汁を作ってくれた。
大きなマスを焼いた夕食を食べていると、近所の若い住人がなにやら相談事があるらしくキッチンにスタスタ入ってきた。私たちが食べてているのにもお構いなく話し続ける。なんて開放的。
残念なことは、私がマスを全部食べ切れなかったこと。「猫にやるから大丈夫」と勝手口のドアに置いてある皿にマスを入れるマザーの背中が寂しそうなのは気にしすぎか。私はHSPなので余計なことを考える。
朝食でだしてもらったマーマイトが気に入った
マオリの村に雑貨屋がありマーマイトを売っていた。さっそく購入。日本のノリの佃煮に味は似ているが、発祥はイギリスで、ビールを作った酒粕のようなもので栄養価がとても高いそうだ。さすがイギリスの元植民地。
リンゴの話にたどり着く前に字数が多くなってしまったから、あとは端折って、
帰国の飛行機の中での経験を書きたい
1988年当時は、まだ飛行機の中でタバコが自由に吸えた。そして私はまだ36歳、時はバブル、バリバリの学習塾経営者、福祉関係の仕事に就き禁煙することになる50歳まで14年もある頃の話です。
客がほとんどいないニュージーランド航空
ニュージーランド航空の機内はすいていた。煙草を吸うために席を移動しても何も言われなかった。まわりを見渡しても人っ子ひとりいないがらんとした椅子が並んでいるだけの正面に大きなスクリーンがある座席を見つけた。
煙草を思う存分吸っていると、キャビンアテンダントが「ワインはいかが」と言ってくれた。前のスクリーンではちょうど当時話題の「フィールド・オブ・ドリームズ」が放映されていて、煙草とワインと映画の至福の時を楽しんでいた。ワインは飲み終わるとキャビンアテンダントが現れて「もう一杯いかが」とグラスを勧めてくれた。
飲み放題ですか?ほかに乗客がいなくて暇なのかしら?と思いつつも勧められるままに口当たりのよいニュージーランドワインをどんどんお代わりした。
ニュージーランド政府の関係者に煙草を1本あげた
映画が終わったころ、一人の白人男性が話しかけてきた。とてもすまなそうに「煙草を1本分けてくれませんか?」「禁煙をしているのに吸っているところを同僚に見られると困るので、ここで吸っていいですか?」
「もちろん、どうぞ」とマルボロを差し出すと「マルボロ!一番好きです」と嬉しそう。マルボロはマッチョな煙草で、当時も女子はあまり吸っていなかったよね。甘い芳香の中に苦みがあってそのころはまっていた。
煙草のみの仲間意識は強いのだ。どうぞどうぞ、てなもんです。
ニュージーランドのリンゴ輸入の商談するために来日した御一行に遭遇
聞くと、その男性はニュージーランドの政府関係者で今から日本に初めてリンゴを売る商談をするためにその飛行機に乗っているのだそうだ。
その当時、たしかニュージーランドのリンゴはまだ日本では見かけなかったから、「商談が成功したら、私もリンゴが食べられて嬉しい。うまくいくといいですね」と言った。
男性は1本吸うと、礼を言い満足そうに戻っていった。
そのニュージーランドのリンゴは、20年ほど前からスーパーで見かけるようになった。
皮が薄くて果肉と変わらなくサクッと歯でかみ切れる。皮ごと食べるのが好きな私には気持ちが良い。すこし酸味を感じるが甘さがその上をいく。調和がよい。ふじリンゴも好きだが皮をむかなくても食べられるニュージーランドのリンゴはまた良きかな。
飛行機を降りるとき、なぜかニュージーランド航空からワインを1本もらった
飛行機が成田に到着して、お見送りを受けながらタラップを降りようとすると、キャビンアテンダントの一人が、「お客様はワインがお好きなようですので、これを会社から差し上げます」とニュージーランドの白ワインを1本渡してくれた。
「えー、こんなことしていただいて」と驚きつつも有難くいただく。
つい最近気が付いたのだが、その白ワインは例のリンゴの商談に来ていた人がくれたのではないか。煙草1本がワイン1本になったとしたら、とんだわらしべ長者になったものだ。
ニュージーランドリンゴをスーパーで見かけるたび、彼の商談がうまくいったことを心のなかで喜んでいる
実はいまテーブルの上にニュージーランドのリンゴがあり、おいしく食べている最中。